「海へ」
前編




誰よりも側にいたい。
そう願うは簡単。
けれど、現実にある、微かな距離。
自分で引いてしまったレール。
その先に彼女がいると分かっているのに、それを越えられない。
募る想いに、歯がゆい想い。
この苦しさから逃げ出すにはどうすればよい?
彼女を想うたび、何度もその問いを繰り返す。


「そう、海が良いわ。海へ行きましょう」
彼女は突然、思いついたようにポンと両手を叩いた。
仕事の合間のティータイム。
難しい顔をして何を考えていたのかと思えば・・・。
「海へ行く?誰が・・・」
「わたくしとあなたよ」
彼女はさも当たり前のように言ってのけた。
「突然だな」
「海へ行くと言ったのは突然だけど、どこかへ行きたいとは思っていたのよ。だって、来週、二日だけ休暇が入っていたでしょう?その日の予定がまだ決まっていなかったのですけど、せっかくの夏の休暇ですもの、海に行こうかと。付き合ってくださるでしょう?」
ね?ヒイロ、と彼女は甘い笑顔を向ける。
俺がこの笑顔に弱いことを知っていてわざとそういう顔をするのか。
とことん、彼女には振り回されてばかりだ。
「海辺の別荘があるんです。お義父さまが亡くなってからは行っていないのですけど、誰にも邪魔されずにあなたと過ごすには、そこが一番良いかと・・・。海がすぐ目の前にあって、とても素敵な別荘なのよ。少し離れた所に他の方の別荘もあるので、さすがに海は独占できませんけど」
「それは・・・決定なんだな」
腕を組んで、彼女へ問う。
「はい」
彼女はにっこりと微笑った。
「いいでしょう?ヒイロ。だって、今回を逃したら、もう行けないかもしれないのよ?」
「・・・わかった。予定を空けておく」
元々予定など無いのだが、わざとらしく渋々と頷くと
「ありがとうっ、ヒイロ」
彼女は俺に飛びついた。
カップから紅茶が零れないように注意しながら片手で彼女を受け止めた。
彼女のわがままを聞き入れるのは、これで何度目だろうか?
わがままを聞き入れる度、そう自分に問う。
けれど、それが自分の望みなのだろう。
本気で嫌だったら、受け止めることはしない。
そんな自分を甘いとは思うが、そんな自分が嫌いじゃないからなおさら性質が悪い。


当日。
パーガンがくれた別荘までの地図を見ながら車を走らせた。
彼女は気持ちよさそうに開いた窓から入り込む風に髪をなびかせている。
「いい風ね。天気が良くて良かった。海日和だわ」
「ああ・・・」
確かに、上天気だった。
海に行くには丁度いい。
白い雲に青い空。
絶好の海日和だ。
「ヒイロ、わたくしね、新しい水着を買ったんですのよ。久しぶりの海ですもの、嬉しくて」
「水着・・・?」
「ええ。ドロシーさんとヒルデさんと会う機会があったので、その時に海へ行く話をしたら、お2人が見立ててくださったの」
「そうか・・・」
水着か・・・。
彼女の水着姿を想像して、運転への集中が危うくなりそうになるが、何とか気を取り直して運転に集中する。
ここで事故るわけにはいかない。
「・・・そうか。楽しみにしている」
「ヒイロったら・・・」
俺の言葉に彼女は顔を赤くした。
その顔を見て、自分がいかに恥ずかしい言葉を言ってしまったかを自覚し、集中が途切れそうになる。
頭を振り、自分を正す。
そうこうしている内に、道沿いに海が見えてきた。
地図と彼女の説明によると、別荘は海のすぐ側にあるということなので、もうすぐ見えてくるだろう。
「別荘の外観は?」
「全体的に白ですわ」
しばらく走ると、白い2階建ての建物が見えてきた。
なるほど、別荘らしい姿をしている。
「あれか?」
「ええ・・・」
彼女は懐かしむように瞳を細めた。
「あの建物です」
少し離れた位置に2,3、別荘らしい建物が並んでいる。
「しばらく来ない内に、新しい方の別荘が増えましたわ」
この様子だと、やはり完全に彼女と二人きり、というのは厳しいだろう。
「やっぱり、誰にも邪魔されずにあなたと過ごすのは難しそうですね」
彼女が、俺が思ったことと同じことを言うので、思わず小さく笑みが浮かぶ。
それに気付いた彼女が少し眉を寄せて俺を見る。
「何ですか?ヒイロ。何がおかしいの?」
「別に・・・。車は玄関の前に止めればいいのか?」
「ええ」
車を止め、助手席に回ってドアを開けた。
「ありがとう」
彼女は少しはにかんで俺の手を取って車を降りた。
「二人きり・・・ですわね」
彼女が今更のように言う。
「何だ、改まって」
「だって、こうしてあなたと二人きりで何処かへ出かけることなんて、叶わないと思っていたから、それが現実になって、すごく嬉しいです」
「リリーナ・・・」
掴んでいた彼女の手を強く握る。
彼女は恥ずかしそうに頬を染める。
落ちた沈黙。
流れる沈黙に、二人とも緊張していることに気付く。
「あ、今、鍵を開けますね」
彼女がその緊張から逃れるようにパッと手を離して鞄の中から鍵を取り出す。
残された手を何となく見つめる。
「2週間に一度ハウスクリーニングの方にお掃除をお願いしているので綺麗だと思いますけど・・・」
鍵を開け、彼女が先に中に入る。
外観通り、中は広くて明るかった。
入ってすぐに見えるリビングにはテーブルと椅子が4脚、奥には暖炉もある。
「夏だけでなく、冬に訪れる機会があったので・・・」
彼女が気付いて説明する。
「もうすぐお昼になりますから、食事にしましょう」
「ああ」
今回の旅行の食事は彼女が任せてほしいというので、俺は何の用意もしていない。
「座ってください、ヒイロ。今、用意をしますから」
「ああ」
言われるままにテーブルに着く。
「今朝、作ったんです」
そう言って、彼女はランチボックスからサンドイッチを出し、皿に載せる。
「お前が?」
「わたくし一人では無理だったので、パーガンと一緒に・・・。パーガンはお料理も上手なのよ」
やはり、あの男は只者ではなかったか・・・。
妙なことに感心する。
「飲み物はコーヒーでいいですか?」
「ああ」
「今、淹れますね」
彼女が奥の台所へ消える。
何となく心配だったので彼女の後に着いて台所へ行く。
流し台の上に収納棚があり、そこに食器がしまってあるらしい。
その食器棚に彼女は爪先立ちで手を伸ばしていた。
彼女の背ではぎりぎり指先が届く距離。
辺りを見渡すが、踏み台らしき物は無い。
見ていて危なっかしい。
仕方ない・・・。
「これなら届くか?」
彼女の腰を抱いて持ち上げる。
「きゃっ」
彼女が急に体が持ち上がったことに驚いて小さく悲鳴を上げて俺を見下ろす。
「ヒイロ・・・」
「届くか?」
「あ・・・、はい・・・」
彼女は恥ずかそうに頬を染めながら食器棚にあるコーヒーカップに手を伸ばし、両手で2つのカップを取った。
そのままゆっくりと彼女の体を下へ下ろす。
「ありがとう・・・」
彼女はなおも頬を染めたままはにかんだ。
「ああ」
ついでにコーヒーを淹れるのも手伝うことにした。
「こうして二人で台所に立っていると、まるで、新婚みたいですね」
彼女の言葉に返す言葉が見つからず、黙って彼女を見た。
「ちょっと思ってみただけです・・・」
彼女は言い訳をするように小さくつぶやくと
「サンドイッチ、食べましょうか」
とコーヒーを入れたカップを持ち、リビングへ足を向けた。
俺も同じようにカップを持ち、リビングへ行く。
それぞれの目の前に、皿に取ったサンドイッチ。
「あなたの好き嫌いがわからなかったので、適当な具を挟んだのですけど・・・」
「大丈夫だ。嫌いなものは特には無い」
「そうですか。良かった・・・」
「食べてもいいか」
「ええ」
彼女は頷くと、笑顔で言った。
「わたくしもいただきます。食べたら、海に行きましょうね」

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