「ステップ」



 彼女と肩を並べて、眺める景色はとても美しかった。
どこまでも続く地平線。
沈みかけの夕日。
素直に美しいと思える。


 今でこそ、体を重ねる仲となった二人だが、ほんの半年ほど前までは、手さえつないだこともなかった。

半年前、今日と同じように彼女と海を見つめていた。
しかし、彼女と自分の間には、片足分の距離が存在する。
彼女は流れる風に髪を手で押さえながら、気持ちよさそうに目を細める。
もう片方の手は、ぶらりと下げたまま。
そっと自分の手を伸ばす。
彼女の空いた左手へと。
目標まであと3センチ。
そのまま手を伸ばす。
あえて彼女の顔は見ずに・・・。
指が触れた。
ハッと彼女が振り向く。
だが、まだ彼女へは振り向かずに、そのままその手で彼女の手を掴む。
少しの間の後、そっと握り返される手に、思わず安堵のため息。
実際、振り払われたらどうしようかと思った。


それから2ヵ月後。
手を繋ぐことに慣れた頃。
2ヶ月前と同じように彼女と並んで海を見つめていた。
「今日はこれで終わりなの?」
突然告げられた言葉に、ん?と振り向く。
「わたくし、もっとあなたに近づきたいわ」
「?」
首を傾げる俺に、もう、と彼女が頬を膨らます。
「ここに・・・触れて」
彼女が指で自分の唇に触れる。
「あなたの・・・ここで」
その指が、俺の唇に触れる。
それが何を意味するかは、聞かなくても十分理解出来た。
「・・・いいのか」
思わず確認する。
用心に用心を重ねて。
ことは慎重に運ばなければ。
あとで後悔したくない。
「・・・いいの。それを、わたくしは望んでいるのだから」
唇に触れていた彼女の手を掴む。
そして、手を繋ぐ形になっていたもう一方の手をぐいっと引っ張る。
「あっ・・・」
彼女の体が簡単に自分の腕の中に収まる。
見つめ合う互いの唇の距離は3ミリ。
頬を染め、震える睫を伏せる彼女。
自分も睫を伏せ、彼女の唇へ・・・。

正直、口付けだけでこんなに緊張を要するとは思わなかった。


「ヒイロ」
名前を呼ばれてハッとする。
「あなたらしくないわね。名前を呼ばれるまで気付かないなんて」
「・・・そうだな」
「何を考えていたの?」
「いや・・・別に・・・」
「・・・そう」
彼女がつまらさなそうに唇を尖らす。
幼い子どものような仕草をする彼女に苦笑してしまう。
「・・・リリーナ。初めて体を重ねた時を覚えているか」
「えっ?・・・ええ、覚えています」
赤い顔をした彼女がぼそっと答える。
「・・・それが、どうかしました?」
「・・・女を抱くのに、あんなに緊張したのは初めてだった」
「そうは、見えませんでしたけど」
「そうか?」
「・・・ちなみに、緊張したのは、何故、ですか?」
泣きそうな顔で彼女が聞いてくる。
迷ったが、正直に答えることにした。
「・・・怖かった。大切にしたいと想う反面、壊してしまうほど、強く抱きたいとも思った。その葛藤が、怖かった」
「・・・ヒイロ」
彼女がそっと俺の胸に顔を埋める。
顔を隠すように。
「・・・あの夜、泣いてしまったわたくしを抱きしめてくれたヒイロの腕は、力強くて、それでいて、とても優しかった・・・」
「リリーナ・・・」
「・・・わたくしの中にも、葛藤はありました。好きな人に抱かれるのは、幸せだと思うし、あなたとそうなれることが嬉しかった。けれど、怖くもありました。“やっぱり止めましょう”と拒否しようかとも思いました。だけど、泣いてしまったわたくしの頬をそっと撫でてくれたあなたの手が、抱きしめてくれるあなたの腕が、わたくしに安心を与えてくれました」
彼女の背中に腕を回し、優しく抱きしめた。


彼女とステップを重ねながら、気付いたことがある。
確かな言葉がなくても、俺と彼女の気持ちは同じなのだと。

彼女の前では、自然に笑えるようになった。
それも、自分の中では一歩の「進歩」だと思う。

無理に自分を変えようと思わなくても、自然と人は変ってゆくものだ。

何も持たない俺に、彼女は手を差し伸べてくれた。
それは同情でもなく、哀れみでもなく、彼女の優しさなのだろう。

「ヒイロ?」
俺の胸に顔を埋めていた彼女が、ふと口を開く。
「どうした」
そっと背中を撫でる。
「わたくし、思うの。無理に自分を変えようと思わなくても、自然と人は変わってゆくもの。いろいろな人に出会い、人は成長してゆくのだわ」
「そうだな・・・」
「わたくしも、あなたと出会って、変わったわ。毎日が、とても充実しているの。もちろん、お仕事は大変よ?でもね、毎日がとても、充実しているのよ」
「そうか・・・」
「・・・ヒイロ。今まで一度も言わなかったけど。今、すごく言いたい気分なの。・・・言ってもいい?」
「何だ」
彼女が顔を上げて微笑む。
「あなたが大好きよ」
「・・・・・・」
俺が驚いて彼女を見つめ返しても、彼女は恥ずかしそうに頬を染めて、けれど、微笑む。
「・・・俺も・・・お前が・・・」
そこまで言うのが限界だった。
彼女が望んでいるだろう言葉を言えなくて、失望させてしまったかもしれない。
そう思って彼女の顔をそっと覗うように見つめると
「嬉しいわ」
と笑って俺に抱きついた。
「・・・大丈夫。あなたの言葉は、わたくしの心にきちんと届きました」
「リリーナ・・・」
「ヒイロ?想いを伝える手段は、言葉だけではないわ。表情や仕草や態度でも、十分に伝わるわ。・・・それが、キスでも・・・」
彼女が頬を染めて俺を見つめる。
彼女の頬を手で優しく包む。
彼女がそっと瞳を閉じる。
その唇へ・・・彼女への想いを込めて・・・。


言葉を越えた想いが・・・彼女へと届くように・・・。



Fin





「あとがき」
ようやく書けました。最初は「Diary」の続きの話として書いていたんですが、途中からどんどん関係ない話になってきたので、まぁ、いいか、と思えてきました。
やっぱり、男女の仲には、段階というものが存在するのかな、と。それはヒイロとリリーナにとっても同じだろうな、と思ってこんなものを書いてみました。
書き始めた時は、初めて手を繋ぐシーンと初めてキスをするシーンは同じ日(シーン)だったんですけど、「ステップ」という題名にした以上、手を繋いだ日とキスした日は別けた方がいいな、と思って今のような感じになりました。
何か、初めて手を繋ぐシーンのヒイロが微妙にかわいい・・・と自分で書いて思ってしまいました。何だか、ヒイロよりもリリーナの方が実は積極的だったりて・・・。
初々しい二人になったな、と個人的に思います。

2004.1.10 希砂羅