「I miss you」
前編


ため息が一つ・・・また一つ・・・。
雨の湿気で濡れた空気に溶けていく。
見送る景色のどれだけを、頭が認識してしるのか、その虚ろな瞳を見ると、
何とも疑わしい。

「・・・10回目」
ぽつりと呟く。
「だぜ?お嬢さん」
後部座席に座る若き外務次官に話しかける。
ため息を聞くのもいい加減飽きた。
「え?」
急に話を振られた彼女が、何がです?という顔で俺を見返す。
「車に乗ってからのため息の数。朝から数えたら、もっとすごいんだろうけどな」
「・・・そんなに、ため息をついてました?わたくし」
「嫌ってほど聞こえたぜ」
「ごめんなさい」
「いや、別に謝ることはないけどさ。何か考え事?それとも、悩み事かい?」
「さあ、どうなのでしょうね」
誤魔化すように笑う。
やれやれ、と思う。
嘘が下手だな・・・と。
そんな風に笑ったら、理解できちまう。
誰が、あんたにそんな悲しい表情をさせているのか。
「あいつに前回会ったのは、いつだい?」
「・・・あいつ・・・ヒイロのことですか?」
少し思案した後、彼女が聞き返す。
「ああ」
「・・・いつ、だったかしらね。もう随分前で、忘れてしましたわ」
「ふーん・・・」
ミラー越しに彼女の表情を確認する。
そこに写っているのは、儚げに、淋しげに瞳を伏せた彼女・・・。
・・・やばいな。
舌打ちする。
そんな顔されたら、付け込んじまうぜ?俺。
そんな俺の心情を知らない彼女は、虚ろな瞳を外に向け、また一つため息を落とした。


 嘘をついた。
“あいつに前回会ったのは、いつだい?”
そう聞かれて、素直に答えなかった。
嘘をついた。
本当は昨日の夜、彼に会った。
いや、彼から会いに来た・・・。
“別離”を告げに。
思い出しただけでも涙が滲む。
けれど、引き止めなかったのは自分だ。
彼の出した答えに、自分はYESの返事をした。
私が彼を縛ることなど、出来ない。
彼はもう、自由なのだから。
戦いからも、私からも、彼は解放されるべきなのだ。
いつか、彼にそれを告げるべきだと、考えていた矢先だった。
旅立つ彼を、最後は笑顔で送り出したかったのに・・・。
心を殺すのはなんて難しいのだろう。
嘘の笑顔など、見せたくなかったのに・・・。



「なあ・・・」
「どうしたの?デュオ」
仕事の休憩中、向かいでコーヒーを優雅に飲むカトルが、首を傾げる。
「最近さ、お嬢さん、元気無いよな?」
「リリーナさん?そうだね。仕事が詰まってるからね。しっかり体を休める時間が作れないんだよ」
「いや、そうじゃなくてさ・・・。仕事で疲れてるってのとは、ちょっと違う気がするんだけどな・・・」
「・・・個人的なことでって、こと?」
「ん?まあ、そうなのかな」
「・・・彼が、姿を消しましたからね」
カトルがつぶやいて、カップを置く。
やっぱり、それが原因か・・・。
「・・・そう・・・だな。あいつがいなくなったからか・・・やっぱり」
「・・・リリーナさんのことが気になるの?デュオ」
「ん?ああ、いや。送迎の車の中でさ、もう、ため息を聞くのにうんざりっていうか」
「それだけ?」
「あ?ああ・・・。それだけ。何だよ、変に疑うなよ」
「ごめん。そうだよね、君にはヒルデさんがいるよね」
「・・・ああ」
ヒルデ・・・か。
正直、ヒルデとの関係は微妙だ。
確かに、ヒルデへ向ける感情は友情よりは愛情に近いだろう。
だが、よく分からない。
家族的な愛に近いのではないかと、思う時もある。
そう言ったら、ヒルデは悲しむかもしれない。
少なくともヒルデは、俺に恋愛感情を抱いているのだろうから。
なんて思うのは、自意識過剰だろうか。


「リリーナさんはさ、あいつのどこが好きなんだい?」
「あいつって・・・どなたのこと?」
後部座席で、彼女が読んでいた資料から顔を上げる。
彼女の顔にはまだ覇気は戻っていない。
資料の内容がきちんと頭に入っているのかも怪しい。
「あいつはあいつ。ヒイロのことさ」
ヒイロの名前が出た途端、彼女の表情が少し強張った。
それはほんの一瞬の変化で、彼女はすぐに資料に顔を戻し、その表情を隠してしまった。
「答えたくないなら、無理に答えなくていいけど、さ。一度聞いてみたかったんだよね」
「・・・・・・」
「ごめん、大事な会議の前なのに、気を散らしちまったな。おしゃべりはここまでにしとくよ」
「・・・だけど、あなたも消化不良のままでは運転に集中できないのではなくて?」
彼女が顔を上げ、ミラー越しに微笑んだ。
「ん?まあ、そうだけど。でもよ・・・」
と、ミラー越しに彼女を伺うと、彼女は横顔を向けていた。
「・・・あの人は、時に残酷なほど、優しい人」
「どういう・・・意味だい?そりゃ」
「彼が・・・わたくしに別れを告げたのも・・・彼の優しさなのよ」
「別れを告げたって・・・。あいつが、お嬢さんに?」
「ええ・・・」
「止めなかったのか?」
「わたくしにそんな資格など、ないもの。彼を縛り付けることなんて出来ない。彼はもう、自由だわ」
「マジで・・・そう思ってるわけ?無理してんだろ?本当はさ。そうやって思い込んでるだけだろ?」
「そんなこと・・・ないわ。わたくしは、彼に幸せになってほしいから・・・」
「わけ分かんねぇよ、あんたら。何で、互いで互いを苦しめるような道をわざわざ選ぶんだよ。好きなら側にいればいいじゃねぇか。簡単なことだろ?」
「・・・・・・」
「まあ、実際のところ、お嬢さんとあいつの仲がどこまで進んでたのかは、知らないけどさ、少なくとも、互いに好意は抱いてるんだろ?あいつは認めないかもしれないけど、あいつは・・・お嬢さんを愛してるよ、ちゃんと。お嬢さんだって、あいつのこと・・・好きだろ?愛しいって思ったりしただろ?」
「・・・・・・」
彼女からの返事は無かった。
変なこと言ったかな。
「悪い・・・。他人に口出されたくないよな」
「・・・いいえ。ありがとう。・・・デュオさん、あなたって・・・素敵な人ね」
「どういう意味で?」
「わたくしは、あなたのようには思えなかった・・・。愛しいと思うことは出来ても、好きだから側にいたい。そんな簡単なことが・・・わたくしには出来なかった・・・。彼の出した答えにYESと告げることしか・・・出来なかったのよ・・・」
彼女の口から嗚咽が漏れ始めた。
こりゃ、今日は無理だな。
「後悔してるか?自分の行動を」
「え?」
「どうなんだよ。もし、やり直せるとしたら、やり直したいと思うかい?それとも、このままでいいのかい?」
「・・・もし、時が戻るのなら・・・」
「よっしゃ!予定変更だ!」
「え?」
「いいから、しっかり掴まっててくれよ。ちょっと飛ばすからな。おっと、その前に電話しとかなきゃ」
車に備え付けの電話の受話器を掴み、知った番号を押す。
すぐに相手が出る。
「おう、俺だ。作戦A、決行だ。よろしく頼むぜ、相棒」
「何をしているの?作戦て・・・?」
「いいから、しっかり掴まってな」
「でも・・・これから会議が・・・」
「大丈夫だ。相棒が代理で出席してくれっから」
「相棒て・・・?」
「リリーナさんに引けをとらない、強力な相棒さ」
「だから、それは誰なの?」
「ああ、もういいから黙っててくれよ。運転に集中したいんだ」
「っ・・・!」
彼女はようやく黙った。
代わりに何度もため息を落としていた。
そのため息を聞きながら、俺って本当におせっかいだな、と思ったりした。



「ここに、あいつはいる」
そこは、どこにでもあるような、普通のアパートの建物。
「3階の左端が奴の部屋。引っ越してなければ、だけど」
「ここに彼が、いるの?」
「きっとな」
「・・・そうなの。ここに彼がいるの・・・」
彼女は窓から3階の左端の部屋を見上げた。
「ありがとう、デュオさん・・・。でも、彼には会えないわ」
彼女の言葉に、は?となる。
ここまで来ておいて、まさかそんなことを言うとは予想外だった。
今の彼女にはもう一押しが必要みたいだな。
「また、逃げる気かい?」
「逃げる・・・?」
「そりゃ、ここに強引に連れて来たのは俺だけどよ。ここまで来たんなら、当たって砕けてみろよ。あ、いや、砕けちゃいけないんだけど」
「・・・彼に拒絶されたら、どうすればいいの?一度はYESと答えたのに、やっぱり納得できないからって押しかけたわたくしを、彼は軽蔑するかもしれないわ・・・」
「だから、何ですぐマイナスに考えるんだよ。当たってみなきゃわかんないだろ?」
「でも・・・」
「もし、さ。当たってみて駄目だったら、俺にしろよ」
「え?」
「俺があんたを救ってやるよ」
「デュオさん・・・。ありがとう。優しい人ね」
「残酷な程にか・・・?自分でも、そう思うけどね」
嫌になるぜ、ほんとに。
「さてと、一応、振られた時のために1時間はここで待ってるよ。1時間過ぎても出てこなかったら帰るよ」
「ええ、わかったわ。ありがとう。頑張ってきます」
「おう!健闘を祈るぜ!」
笑顔で彼女を送り出す。
本当は嫌だったけど、こればっかりは・・・な。


 階段を昇る。
一段昇るごとに、心臓の音が大きく、速くなってくる。
こんなに緊張したのは、久しぶりだ。
外務次官になって、初めて会議に出席して意見を述べた時以来かもしれない。
3階に辿り着く。
一番左端が彼の部屋・・・。
さすがに玄関に名前は出ていない。
インターホンへ伸ばした指が震えてなかなか押せない。
彼が、出てきたら、最初に何て言おう?
お久しぶり、お元気?
ごめんなさい、突然・・・。
そんな言葉しか浮かばない。
さあ、頑張って、リリーナ。
自分を励まし、インターホンを押す。
返事は無かった。
留守なのだろうか。
ホッとしたような、ショックのような。
しかし、少しの間の後、ドアが開いた。
運命のドアが・・・。



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